2009年10月11日日曜日

最近まったく記事を書かずに、メールを何通かいただいた。まだまだ学生やっていますし、卒業していません。

最近これまで以上に人間の生死について考える機会があった。

ひとつひとつは単純なニューロンが大脳で数百億個、小脳で1000億個と怒濤を組んで複雑な思考を生み出す人間が未だに信じられない。デカルトが約300年前に「我思う、故に我あり」といったように、自分も「自分」を意識して生きている。体験したことがないのに、「自分」が消えてなくなることを、本能的に恐れている。それが他人に起ころうとしているときに、本能的に持っている死への恐怖と、その人の意識がなくなることへの悲しみ、いろいろな感情がごっちゃになって絶望が襲いかかってくる。そんなことが起こったらしばらく立ち直れそうにない。誰もが乗り越えなければならないものなのだろうけれど。

昔はいやでいやでしょうがなかった法事や墓参りも、今となってはしっかりとやらなければという考えになった。こういう行事や宗教は、亡くなった人のためというよりは、現世の人のためにあるものだ。あまり、自分は非科学的なものは信じないけれども、お墓に入っている故人を思い出したり、先祖に感謝を忘れないための機会を与えてくれる。こんなことをいったらお寺関係者にひどく怒られそうだ。

前野先生の受動意識仮説に関する本には「人間は自発的に行動したことも、実は脳によって自分がやっていると思わされているから、それを悲しむよりも、割り切って人生楽しくいきていこう」というようなくだりがあった。悲しみも脳が勝手に作り出している幻想ということなんだろうか。その割には本当に重すぎる幻想だ。脳がすごいってことか。

明日からSt. Louisへ学会に行ってきます。まずは自分を立て直さないと。

1 件のコメント:

  1. 私は今日医学部の慰霊祭に参加してきました。私も法要とかは現世に生きている人が、自己満足じゃないけれど、自分たち自身のために行っているような気がします。特に慰霊祭への参列は献体してくださった方への自分の思いを整理するような感覚でした。
    でもこの間法事でお坊さんが法事は亡くなった人を思い出したり、普段集まらない親戚が集まるいい場所で、それを故人も喜ぶみたいなこともいってましたよー

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