2006年9月22日金曜日

義足にする気持ち

留学を決意したのにもっとも大きな影響を与えた友人が義足を使うことを決意した。そして、ぼくの研究テーマは大腿部切断患者用の義足。

彼はこれまで、人工関節を使ってきた。これは、すぐに壊れてしまうし、痛みもあるので、普段の生活の中で常に気をつけなければならないもの。彼が人工関節にしてから、口ではいえなかったけれど、なんで義足にしないのかとずっと思っていた。それは、こっちに来て義足の研究をして、義足を使っている人をみて、義足がlife of qualityを向上させるものだとばかり思っていたからかもしれない。でも彼の最近の文章を読んでわかった気がする。
義足にするか、それとも人工関節にするか。
彼の場合、切断しなくてもいいという選択肢があった。義足にすると、自分の足がなくなるわけで、自分にはそれがどんなことを意味するのか、多分わかっているつもりでわかっていなかった。
生まれてずっといままでともに生きてきた足。いっしょにバスケをやった足。いっしょに水泳もやった足。何をするにもいっしょだった足。その足がなくなる。動かなくなったとしても自分の一部であることにはまちがいない。切り取った自分の足が自分の一部でなくなることがつらい。
義足の研究をしておきながら、彼のつらさの1/100も理解していなかった。多分、まだすべてを理解はできないと思う。だって、体験できないんだから。
彼のような人が世界中にいくらでもいる。むしろ、彼は自分から義足になるという決意をしたからいいほうなのかもしれない。選択の余地もなく、足や腕を切断される患者もたくさんいる。ぼくは病気も治せないし、患者の心も癒せない。エンジニアとしてこのような人たちになにができるのかと思うと、やっぱりいいものを作るしかない。彼らの気持ちの1/100でも理解できるエンジニアになりたい。
おまけ
来年彼が富士山を登る計画を立てているらしい。そしてその周りの友人たちもいっしょに登ろうとしているらしい。アメリカにいるからって、おれを無視するなよ。 よろしく。