2006年10月26日木曜日

先日、ボストン市内にあるSea to youという魚屋さんがbig saleをやっているということで、友人数人とレンタカーをシェアしていってきました。

沼津生まれのぼくとしては、魚には本当に目がない。まぐろ、サーモン、うになどsaleといえども大量の魚を買ってしまって、結局お金をかなり使ってしまった。。

家に帰って、早速魚をさばいてみる。生で食べられるものはその日のうちに食べるのだけれど、問題はあまったもの。どうやって料理をするか。ふとアジをみてあるアイデアが思い浮かぶ。
「開いてみようか。。。」
沼津といえばアジの干物。そうアジの開きに挑戦してみた。
こんな感じ。
ajihiraki.jpg

やり方はかなり適当。取り合えず、内臓を取り除いて開く。その後に塩をすりこんで、陰干し。天日干ししたいところだったけれど、窓から差し込むのはほんの少しの陽射しだし、外に持っていくのもちょっと気がひけたので結局部屋の中に一日中干してみた。
出来上がったものを焼いてみたのがこれ。
ajihiraki2.jpg

以前ボストンで買った真空パックのアジの干物があまりにも臭かったため、ここで干物を食べるのはあきらめていたけれど、やればできるもんなんですね。適当に作った割にはかなりうまい。もうちょっと練習すればたぶん他人に出しても恥ずかしくないと思う。
前にだれかが書いていたけれど、料理と研究はかなり似ているところがある。「料理は愛情」というよりは「料理は実験!」 多分ボストン近辺に住んでいる男性は同意してくれる人が多いと思う。。

2006年10月20日金曜日

異動じゃないよ

以前にも書いたとおり、IROS2006に参加するために北京に行ってきました。

まず、行きの飛行機の中で知り合った中国人がホテルまで車で送ってくれるというところから始まった、はじめての北京。まず空気の汚さに驚く。たぶん東京の比でない。その中国人、迷いに迷って空港からホテルまで3時間もかかってしまった。見知らぬ人に送ってもらったので、無事に、無料で空港からホテルに着いただけでもいいということにしてみる。
しかし、ホテルの部屋をいっしょにシェアする同じラボのConorの発表は聞き逃してしまう。というかその日の発表はほとんど聞けなかった。しかし、知り合い数人にあって優しくしてもらった。前にも書いたけど、ここでそうとう泣き言を書いてしまったからだと思う。その日の夜、Conorと再会。日本人と中国人の英語の未熟さを語られる。あんな英語でよく国際学会来るな~~とかいわれ、ぼくにとっても痛い一言。。。
2日目、朝から学会に参加。ネットの遅さに驚く。さらにヒューマノイドロボットのセッションの数に驚く。いくらなんでも多すぎじゃないかと思う。そこで自分もヒューマノイドロボットのセッションにいることにまた驚く。その日の夜、だれかが持ってきたHappy Academic Life 2006をやることになる。ゲームの中でいつまでたっても教授になれず、かなりへこむ。朝の5時くらいまで続く。。。。
3日目、ついに発表の日。練習しようと思ってたけれど、前日のゲームであまり時間をとれなかった。楽しかったらよしとしよう。自分が発表するセッションの直前、部屋に向かったら、セッションのチェアを頼まれ、びっくりするが面白半分で引き受ける。自分の発表も無難に終えた、、、はず。発表後は、これまで経験したことのない数の人たちが質問に来てくれた。たぶん発表がおわったあと、その場で30分以上は質疑応答していたと思う。いろいろといい情報も聞けた。やっぱり学会は楽しい。
4日目以降、北京周辺を観光する。500mごとに窓からたんを吐く路線バスの運転手に驚く。30秒に一回はクラクションを鳴らす人もいた。中国の運転は難しそう。。。そして、帰国。そして、宿題提出、中間テストが直前であることに驚く。。
中国は本当に驚きの国でした。台湾にはいったことあったけれど、北京はまったく異文化で、興味深かったです。また10年後とかにいったらまたまったく違う北京になっているんだろうな。。
日本の先生方が異動されたとか、同期の人たちがドクターを取ったとか、いろいろと自分の知らない動きがあって、かなり刺激を受けた学会でした。学会で会ったみなさん、お世話になりました。ぼくはデジカメを家に忘れてしまったので、中国の思い出が一枚もありません。ぼくが写っている写真があれば送ってください。お待ちしてまーす。

2006年10月17日火曜日

多分参加するのは2年ぶりぐらいの国際学会。北京に行ってまいりました。というかまだ北京にいて、今日ボストンに帰ります。

留学を決めてから、学会に参加しなくなったので、学会発表はひさしぶり。ブログで、留学がつらいとばかり書いていて、しまいには最近更新がなかったせいか、会う人みんな優しかった。

一番ショックだったのは、同年代の人たちがすでにドクターをとっていて、かなり年下だと思っていた人たちが、博士課程2年とか3年になっていたこと。

いろいろと書きたいことはあるけれど、帰国してからにします。