2009年12月19日土曜日

お悔やみ

先月父が他界した。
思いを記録に残そうと思い、何度も何度も書き始めたけれども、これまでの楽しかった思い出や悲しみみたいなものがこみ上げ、手がとまってしまった。そして、死後1ヶ月たってやっと心の整理ができてきた。

今年の2月に父が車で事故を起こした。単独事故なのでけが人はいなかったが、事故の経緯があまりにもおかしかったので母が病院につれていったところ、かなり深刻な病気が見つかった。小細胞がんという小さな病原が父の肺に住み着いていた。さらに悪いことに、既にリンパ節にも転移が確認され、脳にいたっては大小あわせて30個以上もの転移が見つかった。俗にいう末期だった。

いまでも最初の電話を受けたときの衝撃は覚えている。早朝に電話が鳴り兄の声が聞こえた。
「大事な話があるから、顔を洗ってこい」
顔を洗っているときに、心臓をばくばくさせながらいい知らせではないことを予感していた。その後数日まったく研究もできず、たまらずに緊急帰国することにした。

帰国直後の父は、全脳照射の治療を行っている最中ではあったもののまだまだ元気で、話もたくさんすることができた。その後の抗がん剤治療も幸いなことに副作用も少なく、髪の毛もだいぶ残った。髪の毛がすべて抜けて落ちこんでいるであろう父を少しでも励まそうとして、自分の頭をかなり短い坊主にもしてみたが逆に心配されたこともあった。

その後数ヶ月、脳の転移のせいで物事を理解しにくくはなったが、時折見せる父の穏やかでユーモアのあふれる性格によって、深い悲しみの中でも何度も癒された。こんな極限状態になっても、周りを笑わせることができる人柄は、父に本質的に備わったものなんだろう。

病室には父の友人が何人も訪れた。そこで、これまで知らなかった父のエピソードを聞くことができた。考えてみれば、父の大学や所属していた会社の友人にあったことはあまりなく新鮮だった。

9月初旬、それまで順調だと思われた治療も、はやり他の症例と同じように更なる転移が見つかった。今回は脳と骨にも転移がみつかり、母は、父の体力と病状を考慮し、その後は抗がん剤治療を行わずに緩和のみを行うという方針をとった。苦渋の決断だったに違いない。そして、11月10日に父は永眠した。そのとき、自分は帰国する飛行機の中だった。父の葬式はいつ自分が泣き崩れてもおかしくない心境だった。火葬直前の父の顔、母の悲しすぎる顔、それを支える兄、これらの光景は絶対に一生忘れないだろう。

子供が親より早く死ぬことは、最大の親不孝だと聞いたことがある。それは逆に子供は親の死を乗り越えなければならないということ。なんでこんなプライベートなことを書いているかというと、周りの人に

-タバコを吸っている人はできればやめてほしい
-家族を大事にしてほしい

ということを伝えたかったから。タバコは本当にやめたほうがいい。できなければ、数を減らしてほしい。自分がくるしむだけじゃなく、まわりが一番悲しむのだから。親は本当に大事にすべき存在だと思う。日本は親と仲良くしすぎるとマザコンやファザコンといわれるような習慣があり、照れくさくもある。一方アメリカは本当に親、家族を大事にするし、それを周りにも見せる。これは本当に見ていて心温まる光景だ。この2つは今回痛烈に思ったことで、自分もこれから肝に銘じていこうと思う。

自分が留学し好きなことをできているのは、まちがいなく家族のおかげだ。妻がいて、兄がいて、母がいる。これまでは父もいたがその大きな柱がなくなり,今度は一家を兄がなくなった父の分も家族を支えている。葬式のときの兄の立ち振る舞いが非常に立派だと好評だった。たしかにそうだった。こうやって親から子へ世代が受け継がれていくのだろう。さて、次男の自分はいまだに学生。まだまだ大きな柱にはなれていないが、自分の家族を支えられるような大きな存在になりたい。

最後に、この数ヶ月いろいろな方に迷惑をかけました。本当に申し訳ありませんでした。

2009年10月29日木曜日

2009年10月27日火曜日

お久しぶりです。

もう数週間前のことになるけれども、シアトルのUniversity of Washingtonで開かれたワークショップに招待され、参加してきた。

ワークショップの数日前、急に知り合いからメールを受け取った。なんでも途上国での障害と技術に関するワークショップを開くけれども、MITからも一人招待したいとのこと。何回かメールをやり取りした後、行けなくなった知り合いの代わりに急遽自分が1泊3日の強行スケジュールで参加することになった。

アカデミック編
今回招待されたワークショップはこれ。オーガナイザはchangeというUniversity of Washington内のグループで、ICT(Information and Communication Techonlogy)を使った途上国開発を志している。メンバーのほとんどがコンピュータサイエンス学科に所属しているため、ワークショップの内容も障害者を補助するようなソフトウェアの紹介が多かった。例えば、目が見えない人のため声を使ったコンピュータインターフェースや、耳が聞こえない人のための言語学習システムなど、いま現在途上国で使われている既存の技術の紹介が多かった。自分は身体障害に関わっているため、Northwestern UniversityのWu氏のVacuum Castin Systemがとても印象に残った。これは通常数日は必要な義足用ソケットの作成プロセスを、数時間にすることができるというものだ。



Wu氏とは以前から知り合いで、1年前にはMITに招待し、授業の中で講演をしていただいたこともあった。そのときにはまだこのシステムは出来ていなかったはずで、実は我々DWPでも同じようなプロジェクトが進行中であった。2007年のIDEAS competitionというビジネスプランコンペティションで受賞したアイデアである。しかし、彼がすばらしいシステムを作ってしまったので、MITでは頓挫してしまったという経緯があった。 

ワークショップで再会したWu氏は、医者としては既に引退されているけれども、非常に活動的で新しい共同研究のネタをいろいろと提供してくださった。

このワークショップは、発表者の隣に手話を使った通訳が常に待機し、さらにリアルタイムで発表者が話した言葉がスライドの隣のスクリーンに映りだされていた。何でも、話した言葉を恐ろしい速さでタイプすることができるプロがいるらしい。

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MITのD-labを始め、いろいろな大学で途上国開発への工学的アプローチが広がりつつある。しかし、以前として大学の研究室で行われているのは論文主体のものが圧倒的に多い。国連が提唱しているミレニアム開発目標などに代表されるような、人類が直面している大問題に対して工学ができることは、実は限られている(もちろん分野によるが)。最先端の技術開発ももちろん重要だけれども、大学の教授陣がもう少し開発に目を向けると、本当におもしろい技術がぽんぽんと生まれると思うのだけれど。。。。

旅情編
今回ワークショップが開かれたシアトルは実は2回目の訪問で、8年前にきたことがある。そのときはまだ修士の学生で、ロボカップというロボットのサッカーの大会のために訪れたのだ。ワークショップが終わった後に4時間ほど飛行機の時間まで空いていたので、ダウンタウン周辺をぶらぶらと歩いていると、何カ所か見覚えがある場所があった。とくにこのspace needleは当時滞在していたホテルから近かったので、よく覚えていた。さらに、当時イチロー選手がいるということで、見に行ったsafeco fieldも思い出深い場所の一つ。現在もまだイチロー選手が同じチームで活躍しているとは、本当におどろきでもあり、不思議とうれしくもある。

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昔の写真もアップしようと掘り出してはみたものの、自分の姿が知らないうちにあまりに変わっているのにショックをうけ、断念しました。。。。

2009年10月20日火曜日

少し前になるけれども、日本ロボット学会学術講演会のオーガナイズドセッションで発表をする機会があった。学会の会場は横浜国立大学だったのだけれども、学会で初めての試みとしてポリコムをつかった遠隔地での発表をやらせていただいたのだ。


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セッション名は「国際的に活躍する若手研究者をめざして」というもので、実際に海外で研究を行っている、あるいはしていた若手の研究員が自身の体験を話すというものだった。発表者は多岐にわたって、アメリカはもちろん、フランスやスイス、イタリアで活躍されている方々であった。おそらく自分だけが学生で活躍とはほど遠いものだけれども、自分が留学中に体験したなかで非常に印象深いものを発表した。それはSTeLAD-labだ。

STeLAはもはや自分の中では過去のものになってしまったけれども、今でも続いているもので年に一回リーダーシップフォーラムを開催している学生団体である。簡単に説明するといろいろな国の学生を一カ所にあつめて、さまざまな課題をいっしょにこなしていき、自身のリーダーシップを磨いていくというものだ。ロボット研究に一見関係のないものだと思われがちだけれども、さまざまな分野の知識が必要な分野なので、この集合知をマネージメントするには欠かせないものの一つである。

STeLAを経験してから思い始めたことが、リーダーシップとは結局取り組むべき対象があってはじめて発揮されるものであるということ。その対象は自分にとって、心から熱中できるものでなければならない。STeLAが終わってから、なにか実践できるようなものに取り組みたいと思うようになり、それが自分にとっては、本職の義足の研究、そしてD-labだった。

csという授業を教えている。研究室では、モータやセンサなど高価な要素を組み合わせて義足をつくっているのだが、一方で授業の中ではインドやアフガニスタンでも使えるような安い義肢装具を現地で手に入る材料と現地で使える加工技術だけを使って制作している。ロボット学会では、最先端の技術が発表されているわけだけれども、一方でロボット技術のアプリケーションの一つとして、途上国向けの研究が認められてもいいのではと個人的には思っている。

とえらそうに発表してしまったけれども、深夜の0:00に一人で、カメラに向かって発表するのはさびしいものだった。ポリコムで発表したためか、あるいはもともとつまらないネタだったためか、笑いをとろうとしたところではすべり、時間も少々オーバーしてしまい、発表自体は散々であったけれども、発表のあと何人かのロボット研究者がD-labの取り組みに興味をもってくれて、日本でもいくつかおもしろそうなことができそうだ。

2009年10月11日日曜日

最近まったく記事を書かずに、メールを何通かいただいた。まだまだ学生やっていますし、卒業していません。

最近これまで以上に人間の生死について考える機会があった。

ひとつひとつは単純なニューロンが大脳で数百億個、小脳で1000億個と怒濤を組んで複雑な思考を生み出す人間が未だに信じられない。デカルトが約300年前に「我思う、故に我あり」といったように、自分も「自分」を意識して生きている。体験したことがないのに、「自分」が消えてなくなることを、本能的に恐れている。それが他人に起ころうとしているときに、本能的に持っている死への恐怖と、その人の意識がなくなることへの悲しみ、いろいろな感情がごっちゃになって絶望が襲いかかってくる。そんなことが起こったらしばらく立ち直れそうにない。誰もが乗り越えなければならないものなのだろうけれど。

昔はいやでいやでしょうがなかった法事や墓参りも、今となってはしっかりとやらなければという考えになった。こういう行事や宗教は、亡くなった人のためというよりは、現世の人のためにあるものだ。あまり、自分は非科学的なものは信じないけれども、お墓に入っている故人を思い出したり、先祖に感謝を忘れないための機会を与えてくれる。こんなことをいったらお寺関係者にひどく怒られそうだ。

前野先生の受動意識仮説に関する本には「人間は自発的に行動したことも、実は脳によって自分がやっていると思わされているから、それを悲しむよりも、割り切って人生楽しくいきていこう」というようなくだりがあった。悲しみも脳が勝手に作り出している幻想ということなんだろうか。その割には本当に重すぎる幻想だ。脳がすごいってことか。

明日からSt. Louisへ学会に行ってきます。まずは自分を立て直さないと。

2009年9月16日水曜日

# ロボット学会

初めてこの学会に参加したのは、2001年の第19回の講演会でたしか場所は東京大学だった。

2009年8月12日水曜日

Asimo costume

Asimoといえば、もはやロボットの代名詞ともいうくらいに有名なロボット。
本物じゃないのであしからず。



ソース

今年発表された宇宙開発計画案で盛り込まれた二足歩行ロボットの月探査。思わぬというか思った通り逆風にさらされておりますが、こいつなら月にいっても仕事できるんじゃないかな。見た目宇宙服っぽいし。

作った人たちはこの。はじめてみたけれど結構前に作られたものなんですね。

2009年8月7日金曜日

先日STS-127の打ち上げを見に行って、見損なった記事を書いたときに、小学校のときの卒業アルバムの表紙の絵の話題をあげたら、実家のアルバムを写真に撮って親が送ってくれた。

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記憶の中ではもうちょっとうまくかけていたはずだったんだけれど実際みてみると、手を抜いているような部分がところどころあるね。。後ろの大きく丸いものはなんなんだろう。でも、小学校6年生はこんなものかな。

写真の下の方に学校の名前がちょっとみえてるし。。。。

2009年8月6日木曜日

1969年、ニールアームストロングが人類初、月面を踏みしめてから40年経った。それ以降NASAは100回以上ものスペースシャトルを打ち上げているが、そのプロジェクトも2010年に終わってしまうことが決定している。スペースシャトルが引退してしまうまえに一度は直接打ち上げを見てみたいと思い、航空宇宙工学科の友人数人を中心にオーランドに向かった。

小学校の頃、卒業アルバムに自分の好きな絵をコンピュータのスプラッシュというソフトウェアで描くことになって、自分が選んだ絵の題材はスペースシャトルだった。何かの本の表紙を見ながら、必死に描いたのを覚えている。残念ながらいま手元にはないけれども、放課後までのこって仕上げたりして、当時の自分としてはかなりの力作だったということを覚えている。その後、宇宙の学問に興味を持つことはなかったけれども、スペースシャトルの外観のかっこよさにあこがれたものだ。チャレンジャー号の事故はリアルタイムでテレビを見ていた。あまりにもショッキングな出来事なのでいまでも鮮明に覚えている。

今回のSTS-127の主なミッションは日本の実験棟の最後のパーツを国際宇宙ステーションに送り込むことと、宇宙ステーションに滞在中の若田さんの帰還である。6月に予定されていた発射なのだが、燃料漏れのせいで7月の延期されていた。

数日オーランドに滞在したが、サンダーストームのせいで今回も3回も発射が延期された。今回のミッションは国際宇宙ステーションに行かなければならないので、一日に10分ほどしかチャンスがないらしい。これは国際宇宙ステーションが90分に地球一周という、とてつもない速さで移動しているために、スペースシャトルもそれに合わせて打ち上げなければならないためである。これ以上ラボを休むわけにもいかず、自分は泣く泣くボストンに帰ってきたけれども、友人3人はオーランドに残って最後のチャンスにかけた。その甲斐あって、2009年7月15日エンデバー号は爆音とともに宇宙に飛び立った。


現地に残った友人がとったもの。
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家でテレビでみたもの。
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発射を英語でlaunchというけれども、プロジェクトを始めるときにもlaunchという言葉を使う。大抵の人は発射を見て満足するだろうけれども、実際は発射はただのプロジェクトの始まりで(実際には発射する前からだけれども)、クルーに取っては始まりでしかなかったのだ。発射した後もSTS-127のプロジェクトのニュースをRSSで追っていたので、宇宙でなにが行われているかを毎日チェックしていた。このニュースは非常にこまめにアップデートされていて、毎日クルーが何時にどんな音楽で目をさましているかまで記されていた。また、驚くべきことに若田さんは宇宙ステーションでブログを書いていて、その内容や写真は地球上での生活ではまったく想像もつかないようなものばかりで好奇心をあおられた。

そして、2009年7月31日にエンデバーはケネディスペースセンターに着陸した。若田さんは4ヶ月半も宇宙に滞在したにも関わらず、着陸直後の記者会見には元気な足取りで登場した。おそらく宇宙でのトレーニングを続けていたためだろう。それでも、骨がすかすかになるという現象は若田さんにも例外なくみられるもので、これからリハビリを行う予定だという。


今回のミッションの間、MITの宇宙おたくたちの話を聞いたりしていたために、これまで個人的に疑問におもっていたことがいろいろとわかった。

まずはexternal tankにはエンジンがついていないということ。シャトルは一番大きな燃料タンクの両脇に2つのsolid rocket boosterがついていて、その間にorbiterが蝉のようにくっついた状態で打ち上げられる。

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external tankは写真の真ん中のオレンジ色の大きなやつで、orbiterで見えないがexternal tankの下は丸まっていて、中には液体酸素と液体窒素が入っているだけらしい。

各パーツの切り離し方も本当に興味深い。有る程度の上空にさしかかるとまずは二つのsolid rocket boosterが外側に切り離される。あとはorbiterの推進力だけで大気圏を突破する。その後、地球側にorbiter、宇宙側にexternal tankがある姿勢からいったんひっくり返ってから、external tankが切り離される。ここまでのプロセスが、発射からわずか8分ほどで終了する。最後のタンクの切り離しの映像は地球の外から、tankを落とす様子がはっきりとみえるので、神秘的にすら感じられる。

このプロセスはスキージャンプペアの日本チームによって忠実に再現されている。
下の動画の3:47くらいから注目。



話を聞いていると、日本の宇宙開拓技術は非常にさびしいもので、NASAに深く依存しているという印象を受けた。2回失敗しているとはいえ、100回以上ものスペースシャトルを宇宙に打ち上げているNASAに対し、日本は資金面で協力をし、日本人宇宙飛行士と実験棟「きぼう」を宇宙にうちあげてもらっている。日本独自のものといえば、H-IIに代表されるような小型の無人ロケット。他の大学はわからないけれども、MITには他の学科とくらべて異常な数の日本人大学院生が航空宇宙工学科に所属している。日本のすぐれた知識が、日本ではなく、海外を選ぶのは少し寂しい気もする。

今回のミッションで一番おどろいたことは、航空宇宙工学科の学生が、一般人にはまったくわからないような内容を、"一般常識"として会話をしていたこと。やっぱ宇宙好きはちがうなと思いましたよ。

NASAのwebsiteにはSTS127はもう既に終了したものとして、新しくSTS-128のミッションがトップで紹介されている。来年までに、あと8回ほどの打ち上げが予定されており、JAXAが絡むミッションは来年の3月に予定されている1回だけだという。この打ち上げはぜひ生でみてみたい。

2009年6月19日金曜日

いろいろ

またまたアカデミックな話。

先月、日本に3週間滞在し、ICRAロボメカに参加した。国内の学会は、毎回同じメンバーが顔を揃えるため、おそらく自分と同世代の研究者や有名な教授陣は知り合いで、自分の知り合いが非常に少ないことを痛感した。とくに懇親会では、ロボット着ぐるみコンテストというものが開催され、参加している教授や学生やその知り合いなどがみんな内輪で異常に盛り上がり、自分がアウェイにいるような感覚だった。それでも、着ぐるみコンテストは、見てて単純に楽しかったですが、これをみた同業者以外の人たちはどう思うのだろうか。。。。しかし、パクリはずるいとおもう。

ここ数年、自分の研究を日本語で発表することもなかなかなかったし、日本の研究者と日本語で議論することはなかったので、変な違和感を感じたけれど終始楽しむことはできた。

ここで、ちょっと感じたことを数点。

ODEについて
ODEと言えば、おそらくアメリカでは、いや少なくともうちの大学ではOrdinary Differential Equationのことで、シミュレーションでODEをつかったといえば、ただ微分方程式を解いたというようなニュアンスに聞こえる。しかし、日本ではODEといえば、Open Dynamics Engineらしい。そんなにはやっているものなのでしょうか。自分も修士まで使っていたライブラリなのだけれど、結局いろいろな理由で使わなくなったもの。当時はあまり使っている人もいなかったけれど、ロボメカでは使っている人が本当に多くてびっくりした。

impedance controlについて
impedance controlといえば、たとえばロボットアームの手先に仮想のインピーダンスを想定して、手先にかかる力に相当するトルクを各関節にかけるものを思いつく。しかし、ロボメカのある発表で関節のPD制御をインピーダンス制御といっている発表者がいて、発表を聞いていた人もそれに同意していた。確かに、関節のインピーダンスを制御しているのだけれど、これって日本全体でそうなんでしょうか?

歩行補助機について
HALのような機構のエグゾスケルトンに関する研究が異常に多かった。その機械を評価するのに筋肉のEMGを用いているものが多かったけれど、ある筋肉のEMGの信号が減少したからといって、その運動を補助しているとは限らない。そして、EMGはすべての筋肉から得られるものではないので、機械を作った->ある筋肉のEMGが減ったという研究が本当に多かったけれど、まだなにも結果を示せていないと思う。

というような質問をとある先生にしたのだけれど、これをブログに書くと、いろいろな人が答えをメールしてくれるかもよと言ってくれる人がいたので、書いてみました。研究批判ではなく、単純な感想です。

2009年6月17日水曜日

先日HUROBINTのイベントに参加させていただいた。
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このイベントは、津田沼にある千葉工業大学で行われた。実際に開催場所に行って参加したわけではなく、skypeを使って講演者の発表を聞かせていただいたのだ。

このHUROBINTは日本でどれほど知名度があるのか、わからないけれど自分にとってはとてもありがたい団体である。というのも、彼らはこれまでに2回もMITに10名以上の日本人の若手研究者をつれてきて、ワークショップを開いている。留学していることは楽しいけれど、このような同世代同分野の日本人と知り合いになるチャンスはなかなかない。日本にいれば、ロボット関係者が集まるロボティクスメカトロニクスや日本ロボット学会学術講演会に参加できるのだが、留学生にはそれができない。HUROBINTはそんなぼくに、同世代の同業者をたくさん連れてきてくれた。

skypeで聞く発表は、ときどき声が途切れたり、聞きづらくはなるけれども、音質画質ともによいクオリティでとても楽しむことができた。あらかじめPDFでスライドを送っていただき、それを手元で見ながら、skypeのビデオでも映像を楽しむ。しかし、質疑応答の声が聞きづらいことや、pdfだとムービーがみれないうえに、skypeの映像ではムービーは見づらいなどといった欠点もある。改善していけばこのような会議でも使えるようにはなると思うのだけれど、なにか画期的なソフトウェアがあるような気がしてならない。どなたか、無償でつかえるマルチポイントビデオ会議システムを知っている方がいれば教えてください。

今回参加したのは、ただ単純にHUROBINTというものに参加したかったというのもあるが、9月にあるロボット学会学術講演会のリハーサルという理由もあった。このHUROBINTは9月のこの学会で、若手研究者のためのブレインストーミング-学際性と国際性の向上をめざして-と題して、オーガナイズドセッションを開く予定で、その中で留学生数名がskypeを通して発表するという試みをしようとしている。このような公の場に、海外に留学しながらも日本の学会から声をかけていただけることは本当にありがたいお話である。ほかにもおもしろそうなオーガナイズドセッションがたくさんあるけれども、ぜひたくさんの同世代研究者にきてもらいたい。

ちなみに千葉工業大学で行われたHUROBINTの直後、新型インフルエンザに感染した学生がみつかり、学生が学内立ち入り禁止になったそうな。そのために21日に予定されていたオープンキャンパスも中止になってしまったらしい。

とにかく、オーガナイザの方々本当にありがとう。そしておつかれさまでした。

2009年6月14日日曜日

富士山のふもとで、たねを育てる

世界の中心で。。、的なこのタイトルは先日行ってきた美術館でやっていた展示。

美術館というと自分とはほど遠いものといわれるかもしれないけれど、実はその昔工業デザイナーになりたかったと思っていたくらい、(あまりうまくないけれど)絵を描くのは好きで、いまでもえんぴつデッサンを研究の合間の空いた時間に描いている。

先日沼津にいる間に、クレマチスの丘にあるビュッフェ美術館で働いているいとこが、いろいろなパンフレットをおくってくれた。その中で「MITマン」という名前の気になる作品があったので、行ってきました。

MITマンを作ったのはFabrice Hyberというフランス生まれパリ在中のアーティストで、社会問題をアートという形で世界に発信している今はやりの社会派アーティストの一人。彼が注目しているのは「食文化」。彼の親が農業を営んでいたということもあり、彼は「たねを育てる」ことによって、都市を押し進めている東京のやみくもな追求と、そのことへの自覚に到達する方法とを組み合わせること、そしてそれを何度でも繰り返して説明しようとしている。

そんなことは、当時つゆ知らず美術館を歩いて回って気になった作品は2つ。

一つめはもちろんMITマン。もちろん名前が気になっただけ。
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必要な栄養素を持つ野菜や果物が体のその場所につけられたオブジェ。例えば、頭部のカリフラワーは髪の毛を豊かにするものらしい。なぜMITマンとよばれているかというと、2007年彼がMITで有名な教授Robert Langerと出会って、共同で実施した研究成果。Robert Langerといえば、おそらくMITで1,2位を争う有名な教授でNatureへ論文をぽんぽん出している。彼のwebsiteを見てみると、彼の所属はbiologyでもbioengineeringでもHSTでもなく、Chemical Engineeringなんですね。とにかく、まったく専門でない自分が知っているくらい有名な先生ということ。彼のある一日の生活の風景がNaturenewsの記事になっていた。とても健康的な生活を送っているようだ。ちなみに、彼のところでポスドクをやることになっている友人にこのMITマンをみせたけれど、やっぱり知らなかった。


もうひとつがこれ。

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その展示には、さまざまな食、生き物、技術をモチーフに描かれた彼の習作が壁にびっしりと、不規則に貼り付けられていた。その中でなぜこれが気になったからというと、だたこれをみて、うずしおキングを連想してしまったから。。

と変な感想ばかり書いてしまったけれど、全体的にただのアートとしてではなく、社会問題をアートで表現するという、今となってはありきたりになってしまったことだけれども、彼の場合にはより科学者に近い視点をもっているような印象を受けた。しかし、正直このようなアートをみても素人にはやっぱり理解しがたく、自分にはNorman Rockwellのようなわかりやすい絵を見ているほうがいいかなとも思った。

2009年6月11日木曜日

日本から帰ってきたときからか、このブログのアクセス数が増えたので、アクセスログをみてみると、不思議なことにgoogleから直接きている人が多かった。検索キーワードはHugh Herrやmedia lab、留学などが多かった。日本に帰国したときに会った人が、がんばってさがしてくれたのだろうか、それともただHugh Herrが有名になっただけか。いずれにせよ、最近非常に多くの人がここを訪れてくれているみたいでうれしいかぎりです。。また学会でいろいろな人にあったけれど、意外に多かったのが初対面だけれど、このブログをよんでくれている人が少なくなかったのに驚きました。

そんな同業者のみなさん、遅れること9日、やっとIROSの通知がありました。無事にアクセプトされたので、ぜひぜひ10月にまた会いましょう。ちなみに1650通以上の論文の中から900通の論文がアクセプトされたようです。約54%なので、そこまで低くならなかったみたいです。よかったよかった。

2009年5月24日日曜日

久しぶり。

先日の学会で日本で活躍されている若手の先生方や研究員の方々と話をする機会があったが、やはり自分が気になるために、よく自分の今後の進路について相談をする。

海外でPh.Dをとるということに関しては、メリットはもちろんデメリットもある。これに関しては留学生の間でもかなりの議論されていることだと思う。これから書くことは、ロボット関連のことだけれど、もしかしたら他の分野でもそうなのかもしれない。

研究者として留学するメリットとしては
1.日本国内だけではできないことができる
2.英語がうまくなる
3.進路先の選択肢が広がる
4.お金がもらえる

1に関しては人によるのだけれど、自分に関していえば、潤沢なグラントを使える研究環境の他にも、安い義足をつくってインドにもっていくプロジェクトに参加したり、MITの学生相手にrobo-oneをオーガナイズしてみたり、なにかやろうとすればしやすい金銭的にも恵まれた環境であると感じる。2に関してはもちろんだれも疑わないだろう。しかし、ネイティブレベルかといわれると、絶対にそれはないと思う。よく1,2年アメリカにいれば、英語は完璧になると思っている人がいるようだけれど、実際は4,5年いても純日本人は結局はネイティブとの差を歴然と感じ続けているはず。3はいろいろな経験をすることができるので、自ずと人間関係は広がり、いままで一人では知り得なかったことを知るようになり、当然将来のオプションの増えていく。4はあまり知られていないようだけれど、大抵留学生は授業料と生活費を研究室の先生から支給されている。

つぎにデメリットを考えてみる。
1.博士取るまでの時間が長い
2.学会論文、雑誌論文を出しづらい
3.日本でのコネを増やしづらい

��学科や大学によって異なるだろうけれど)平均5年はかかるアメリカでの博士課程。修士をもっていても結局はQualifying examがあるので、同じ大学で修士と博士を取得する場合には、実はあまり年数に影響はない。2の論文の数に関しては、一言申したい。日本の学生は国内の雑誌があるために、あきらかに論文の数を揃えやすい。さらに狭い業界であるために、研究室の先生が論文誌の特集を組むときには同じ研究室の学生の論文が投稿される。一方で海外でPh.D取得を目指す学生は最初の2年はQualifying Examがあるために、授業でいっぱいいっぱいになる人が多い。そのあとも結局はマイナーなどのために授業は取り続けなければならない。論文の質を無視して、論文の数を評価の対象にいれる大学があるのはどうかと思う。最後にやはり狭い業界では良くも悪くもコネが必要であるということをよく思い知らされる。博士課程を終了した人たちは多くが本人、あるいは先生の知り合いのところにお世話になることが多いのも一つの理由だ。

別に日本の博士がだめだといっているのではない。日本の学生はあまり授業がないために、純粋に研究をする時間の割合が多いのが魅力だと思う。ただ、日本の博士とアメリカのPh.Dを同じ土俵にのせて勝負させても意味がないのではと思う。

今回いろいろな人と話をするまで、このような不満を日々持っていた。そのために、日本のアカデミアへの就職はかなりきびしいものと思っていた。いまでも厳しいとは思う。しかし、今回の学会で会った先生方の話によると、評価対象も徐々に変わってきているらしい。とくに、アジアや欧米からの留学生が増えている大学では、英語で講義ができるということもプラス査定になるとのこと。

ただ、評価方法や大学のシステムが変わってきている反面、まだまだ至らない点も多いらしい。例えば、海外の大学ではよくあるテニュアの制度を取り入れている大学も増えてきた。しかし、本質はあまりかわっていなかったり、任期があるだけだったりするらしい。古くからのこっている講座制というものも、システムを新しくすることへの妨げになっている大学もあるらしい。

日本は優秀な研究者を増やすために、ポスドクを増やしたり、高校生向けのプログラムを用意したり、大きな助成金を大学向けにつくったりと一見努力を試みていはいる。海外の大学へあわせるために、教授、準教授、助教という名前に変わったりと、様々な制度も新しくなったけれど、本質を知らずに海外のまねだけしてみても、結局は民間主体の日本の科学技術は変わらないと思う。変な欧米化はしなくていいから、とりあえず名刺のサイズは同じにしてほしい。。

正直、いろいろなオプションはあるけれど、卒業してからの進路はまだ決めていない。こんな時代、卒業したらなにをすればいいのだろう。なにかコメントや反論があれば、ぜひぜひお願いします。

2009年5月22日金曜日

おひさしぶりです

実は5月12日から日本にきている。

空港での新型インフルエンザ対策はマスクと白衣を身につけた10名ほどの人たちがサーモグラフィーのカメラを片手に乗り込んできた。あとはどこからきたか、あるいは日本の滞在先を用紙に記入し提出するだけ。これだけでも乗客全員を終えるのに1時間以上かかり、一部の人たちはかなりいらついていた。乗り継ぎがきびしかったのだろうか。

そのあと、実家にはよらずに直接学会の開催地である神戸に向かった。10時間以上のフライトでつかれきっていたので、東京から新神戸の新幹線の中では寝てしまおうとおもっていたのだけれど、同じ学会に参加したドイツ人の集団に絡まれ、終始話しかけられて、寝ることができなかった。それでも大阪についたころには知らない間に寝てしまっていて、実家からかかってきた電話で目が覚めた。

今回の帰国はICRAという国際学会に参加するためだ。学会会場にもサーモグラフィーカメラが入り口にあって、スタッフはみんなマスクをつけていた。学会会期中は参加者もマスクをつけるようにといわれたが、海外からの参加者はとくにつけている人は少なかった。会期中に神戸市内で感染者がでてからは、とにかく全員マスクをつけるようにと市からもいわれて、スタッフは徹底しようとしていたけれど、それでもあまり効果がなかった。

また、会期中に保健所から実家に連絡があったようだ。その日から毎朝電話がかかってくるようになり、渡航してきた人の体調を観察してるのだ。幸い、いまのところ体調はかわりない。

その後、数日にわたって日本では新型インフルエンザ感染者が急激に増えた。最初に感染者がみつかったのは神戸だ。しかも学会期間中に。この時期に海外からたくさんの人が一カ所に集まるイベントはそうない。まっさきに疑われるであろうこの学会だけれど、いまのところ感染者がいたという情報は聞かない。それでも某大学では、この学会に参加した人は数日間自宅待機であったり、感染をさけるためにfarewell partyに参加できなかったりと、かなり警戒している大学があったようだ。

今週末からはまた別の学会があり、同じような参加者が今度は福岡に集まる。福岡に感染者がでたら、きっと同業者が疑われるのかな。

水際で防ぐといっていた厚生労働省だけれども、警戒しすぎだよと避難されている日本人。おれはそれよりも、感染者が増えてから、新型は季節性と変わらないといって、感染者の入院措置を緩和するのはちょっと、「防ごうと思ったけれどやっぱりだめだった、ごめん」というようなニュアンスに聞こえる。これからどうなるんだろう。何事もなくアメリカに帰れればいいけれど。

2009年5月8日金曜日

ぼくの所属する研究室の真上はちょっとしたアートギャラリーになっていて、数ヶ月ごとに展示されるものが変わる。その展示物を入れ替えるときに簡単な工事がよくあるのだけれど、そのときの騒音が本当にうるさい。そのため、最近tenureをとって浮かれているアドバイザーは人数分Bosequietconfort3を買ってくれた。その性能は本当に驚くべきもので、工事の真下で働く人に取っては書かせない物になったとさ。

そのBoseとは全く関係ないのだけれど、1ヶ月ほど前に坊主になった。ずっと長めだったのだけれど、「あ、坊主になったらどうだろう」と思い、バリカンを用意して友達にきってもらった。野次馬的にあつまった人とうちの部屋でわいわいやりながら刈ったのだけれど、刈った当時はまだ外は寒く、ニットの帽子をかぶらずに外を歩けなかった。

Before
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After
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刈った直後はさすがに5mmはやりすぎたと思ったけれど、触った感触の気持ちよさとか懐かしさとか考えるとやってよかったかな。誰かに、「どうせ抜けてなくなるのだから、いまやらなくても。。」ともいわれた。それでも、体も少し軽くなった気がするし、バスケをやっても少しドライブが鋭くなった気がする。いまは少しのびてしまったけれど、これからしばらく坊主を続けようかと思ってます。

どうかよろしく。

2009年3月24日火曜日

知り合いが文房具について記事を書いていたので自分も書くことにした。

自分はかなりの文房具好きであると思う。数万する万年筆やボールペンが好きな訳ではない。外食で例えるとB級グルメ的で手軽に使える文房具が好きなのだ。研究を進めるにあたり、自分は研究ノートを奇麗につくるほうであると思う。いままでいろいろなペンをつかってきたけれど、ここ数年はボールペンをつかってノートをとるようになった。アメリカに来てからはいい店がないのであまり買っていないけれど、実家に帰るといつもいく文房具屋さんがある。インクという店だ。ここは非常にアクセスが悪く、車でないと行けないけれども、いままでいった文房具屋さんでも、ここほど品揃えがいいところはなかなかない。

これまでも何度も足を運んだ店だけれど、前回の帰省でこの店の専務が兄の知り合いであるということがわかった。早速挨拶がてら行かなければと思い、買い物に出かけた。そのとき知ったのだけれど、自分だけじゃなく、自分の兄も親も文房具好きであるということをしった。遺伝って恐ろしい。

専務もやはり文房具マニアでいろいろな物を進めてくれた。

まずはシャープペンについて。現在日本では三菱鉛筆のクルトガという品物があるということを教えてくれた。シャープペンを使っていると、通常の芯の先が平らになってしまう。クルトガは芯をくるくると回転させることによって、芯の先が常に使いやすい形状を保つというものだ。これにナノダイヤという固い芯を使えば、最強であると教えてくれた。さらに消しゴムはサクラクレパスのフォームイレーザーダブル。残念ながら、シャープペンを使う機会がなかなかないのでこれらの組み合わせを試したことはまだない。

ボームペンについては、ゲルインクでいいものはないかと聞くと、ある一本のペンを持ってきてくれた。おれはこれまでにいろいろなゲルインクのペンをつかっていたけれど、色の違いがあるものの、書きごこちについては、あまり大差がないと思っていた。アメリカに来てからは、PilotのG-2を愛用をしていた。学内の店でも手に入りやすかったからだ。数年前に日本にかえったときには、ZEBRAのsarasa clipを気に入って、大量に買って渡米した。そして、今回専務に勧められたのはPentelのEnerGel。これはいままでにない滑らかな書き心地とペン先から描かれる奇麗な線にすっかりほれこんでしまった。いまではこれが自分のメインツールになっている。

もう一つ教えてくれたのがPilotのフリクション。このペンで字を書いた後、ペンの後ろにあるゴムの部分で文字をこすると、不思議なことに文字が消えるというもの。実際は字が消えるというよりは、摩擦によって引き起こされる温度変化によって、インクが見えなくなるというものだそうだ。最初はおーーと思ったけれど、結局使い心地のいいEnergelに落ち着いたので、フリクションはアメリカにいる友達のお土産にした。意外と好評だ。


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ここ数年に使ってきたボールペン。自分には0.7mmがいいらしい。

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今使っているペンケース。

みなさんはどんなペンつかってますか??

日本の文房具最強説

2009年3月19日木曜日

最近身の回りでは、目を覆いたくなるようなことばかりおこるけれども、それでもそれらを受け入れて、できることを一生懸命やり抜こうと思った。

自分が留学を決意したときには、不思議と気持ちが留学に行き着くきっかけがいくつもあった。そのきっかけの一つをくれた後輩YNに会いにNYにいってきた。というと、もう一人の後輩が怒りそうなので、本当のことをいっておくと、日本から別の後輩が彼氏といっしょにNYにくるという連絡をもらったので、YNにも連絡をしてそこで会うことになった。

最初は4人でマンハッタンで食事をした後、おれとYNは後輩と別れ、YNの仕事場へ連れて行ってもらった。彼は現在New York KnicksのAthletic trainerのインターンをしているのだ。そのときはKnicksの選手たちは遠征にいっているため、中にいれてもらえたのだろう。おそらく、おれはとてつもなく運が良かったのだと思う。そこで軽くバスケをした。ひさびさにみる彼のシュートフォームは懐かしい物があった。2回ほど3ポイントシュートの勝負をしたけれど、2回とも負けた。NBAのボールが小さいからと言い訳をしておこう。。ちくしょ。。

仕事場を見せてもらいながら、普段彼がどんな仕事をしているのかを話してくれた。薄々気づいてはいたけれど、おれと彼は結構近い分野で勉強をしているということがわかった。ただ、彼のほうが圧倒的に臨床に近く、実用的な知識だと思う。

そもそもおれが留学というオプションに気づいたのは、彼が留学するということを聞いたからだ。2005年の夏頃、彼は大学を卒業してから、留学するために英語を勉強しているというような話をしたのを覚えている。その頃、博士課程の1年目だったおれは、自分の研究分野に違和感を感じていて、なにか他の道はないかと思っていたところに、彼の留学という話を聞いた。そして、2005年の秋にたまたま学会であったMITのポスドクに言われるがままにアプライし、現在に至った。おそらく、彼が留学していなかったら、おれも留学していなかっただろう。

当時、彼はNBAでアスレチックトレーナーをしたいといって、留学をした。そのとき、本当に彼がNBAで仕事をすると何人が思っただろう?少なくともおれは難しいのではと、そして挑戦することは悪いことではないと、ちょっと上から目線で思っていた。正直びっくりした。インターンとはいえ、彼は実際にNBAで仕事をしているのだ。なんで、このことを自慢しないのかと笑いながら聞くと
「やりたいという情熱だけでここまでこれたけれど、まだ自分の技術が認められたわけではない」
と答えた。夜遅くまで話をしていて、もっとかっこいいことをいっていたけれど、とりあえず、おれの心の中にとどめておくことにする。


話は変わるけれども、夜12時をすぎた頃、YNは彼女としきりにskypeで話をしたがっていた。彼女は台湾人で台湾にいるため時差があるのだ。おれがいるのになんでそこまで話をしたがるのかなぁと思いつつ、紹介してもらい、軽く話をしたあと、電話を切る間際に
「けんさん、おちゃめですね。」
と奇麗な日本語でいわれた。なるほど、これをいいたかったのか。。

日本にいたころに高校のOBで作ったn-eastというバスケのチームにいたころ、おれはおちゃめキャラというポジションだった。正直、自分としては心外で、そんなキャラではないはずだといまでも思っている。

そんなおれが、彼が留学するときに寄せ書きしたメッセージが以下の写真。
なんだ、、おれ。
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2009年2月14日土曜日

写真が上手!!

わけあって、しばらくボストンから離れることになった。その前にいま手元にある仕事を終わらせたり、引き継いでもらったりと、一日中忙しかった。

今日は朝から晴れわたり、春を思わせる陽気だった。数日前までは氷点下だった気温も今日は10度くらいまで上昇していた。しばらくMITを離れるということもあり、今度戻ってきたらどれくらい変わっているかと思って、家からラボまでの道で何枚か写真をとってみた。

天気のいい日は、川沿いの道を通ることにしている。川越しにみるボストンの風景が好きだからだ。今日もアパートをでた瞬間に、川沿いの道へ自然と自転車を進めていた。

昨日まで道路のすみに追いやられていた雪がほぼ解けてしまい、いまでは黒ずんだ雪の固まりが転々と道ばたにあるだけになっていた。もはや、歩道の真ん中で凍った池だまりで、滑って転ぶことを気にしなくてもいいので、快調に自転車のペダルをこいだ。

数日前まで一面凍っていたcharles riverの水も徐々に解け始めていた。しかし、今年の冬は例年にはない寒さが続いただけあって、表面は溶けているけれども、全部がとけるには時間がかかりそうだ。その向こうに見えるボストン市外の光景はいつ見ても圧巻だ。

それでも、ヨットハーバーの付近の一部の氷だけはすでに解け、川の水が姿を見せていた。その周りに小さな鳥が集まって、氷がまだ溶けないかと待っているかのようだった。

そして、ラボの隣の工事中の建物が見えてくる。いつもの光景だ。それでもこの新しい建物も徐々に完成に近づいてきて、外見はもうほぼ出来上がっているようだ。


帰国された方々はこの今の建物をみて、だいぶ工事が進んだことがわかるんじゃないでしょうか。またMITに帰ってきたときにはどれだけ変わっているか、たのしみです。

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2009年2月9日月曜日

アメリカにきてから、4度目の春セメスターが始まった。もはや、去年に卒業に必要な授業をすべてとったため、、今年からは勉強したいものをとることができるようになり以前にもまして余裕が生まれた。それと同時に卒業へのプレッシャーも徐々に感じるようになってきた。

今年の春セメスターは2つの教科を教える立場になった。
まず一つ目は去年も行ったDeveloping World Prostheticsという名前の授業。去年のLecturerが現在Northwestern Univ.のMedical schoolに入学してしまったため、半ば強引に押しつけられた形でLecturerになるはめになった。

授業の内容は基本的には去年と同じ。発展途上国に用いられている義足の技術、社会保険の制度、用いることのできる材料、患者の数を勉強しつつ、インドやカンボジアで用いることのできる義足の設計、制作を行うというもの。授業が終わっても、やる気のある学生は夏休み中にプロジェクトを続けることができ、うまくいけばできたものを実際に現場にもっていき、テストをすることになっている。授業を受けた20人の中から、2人の学生がインドに出向き、彼らが作った義足を現地のクリニックでテストすることができた。いまでもこのプロジェクトはつづいていて、今年の夏も行くらしい。

じつは今年は2週間ほどまえまで、2人の学生しか登録されていなかった。このままでは授業を行うことができないと思い、1週間を使って、MIT全体にポスターをはったり、航空宇宙・EECS・HST・機械学科の学部生のメーリングリストにクラスの宣伝メールを行った。その甲斐あって、最初の授業には15人の学生が授業にきてくれた。今年は何人の学生が夏に現地にいくことができるであろうか。

そして2つめの授業の名前はHuman 2.0。この授業はアドバイザーが今年から始めて教える授業で、TAをやることになった。授業の内容は実はあまり理解していないのだけれど、人間の脚部のセミナーから始まって、上半身、記憶、感情などの人間の要所要所の機能のメカニズムを勉強し、最終的にはプロジェクトとして人間の何かしらの機能を向上させるをするものをつくらなければいけないらしい。

という感じですでに、忙しいながらも、楽しみながら日々を送っています。こっちに来たばかりのときには、自分がいままで学んで機械工学、メカトロの知識を義足に役立てるんだって意気込んていたけれど、いまとなってはすっかり、人間の複雑さ・頑強さ・柔軟さに惹かれるようになった。筋肉一つをとっても、あれだけの機能を再現できる機械要素はみつからない。そんな筋肉を500個以上もつかって毎日体を動かしている人間はすごい。

2009年2月4日水曜日

ひきつづき沼津ネタです。

前回オムライスに関してこんな記事を書いた。

かいつまんで話すと、おれがかなりのオムライス好きだということが書いてある。オムライスであればなんでもいいというわけではない。ちまたでオムハヤシなどと呼ばれている、デミグラスソースがかかったこじゃれたようなものではなく、ケチャップののった正当派のオムライスでなければいけない。

そんな記事を書いたもんだから、先日実家に帰ったときに親が気を利かせてくれて、昔よく行った千楽のオムライスを食べようといってくれた。まだオムライスをだしているかもわからない、まして店がまだあいているかもわからない。最近の沼津駅近くの商店街を見ていると、千楽のような昔なじみのお店はもうやっていないのではないかと、ひそかに思っていた。

そんな中、親が電話をしてみると、オムライスをまだだしているだけでなく、千本の遠藤さんという名前を覚えていたようだ。スーパーや大型電器店、レストランのチェーン店が続々と沼津に進出しているなか、千楽のような昔なじみの洋食屋が生き残っているのは本当に大変だろうと思うけれど、おれのような昔から沼津にすんできるような人にとってはほんとにうれしいことだ。

そして、千楽によってオムライスを受け取り、家に帰ってご対面。

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改めてみてみるとかなりでかい。となりに名刺をおいてみた。とにかくでかい。食べてみると、懐かしい味が口の中に広がった。たぶん、大きさも味も、十数年前とあまり変わっていないと思う。

毎回帰省するたびに、沼津市街は変わっていった。駅前からは老舗がなくなり、さらに富士急デパートもなくなり、マンションばかりたつようになってしまった。新幹線で東京まで1時間ほどなので、ベッドタウン化しているらしい。昔の沼津は、静岡県東部の経済の中心地として、また観光地としてもそれなりの知名度を誇っていたらしいけれど、今となっては徐々に時代の波に飲まれつつある地方都市の一つになってしまっている。wikipediaをみてみても、さんざんな言われようだ。こんな沼津を活性化したいという話を、幼なじみから聞いた。お互いいい年になって、ある自分のできることがわかってきて、その力を少しでも沼津の活性化につなげたいという熱い思いを聞いて、自分もなんか故郷のためにできないかと思うのだけれど、自分になにができるんだろう。。

とりあえず、帰省したら千楽のオムライスを食べることからはじめることにします。

はじめて親にせがまれて記事を書いてみたけれど、話が脱線。。ごめんなさい。

2009年2月2日月曜日

物心ついたときから、沼津という港町に住んでいて、テレビで見る都会に憧れて、中高生のときは兄と同じように一刻も早くこの町を出て行きたいと思っていた。当時は特に理由もなく、やりたいこともないのに、アメリカの大学に行きたいといって、親に反対されたときもあった。ただ、とにかくいち早く沼津という町から東京に出て行った兄がうやましくて、自分も東京の大学に入学して、一人暮らしをするんだということばかり考えていた。実際に10年後、20年後自分が何をやっているかなんてあまり考えていなかったな。

高校を卒業してから、念願の東京での一人暮らしが始まった。正確に言うと、東京ではなく、横浜なんだけれど、沼津からみたらあまり違いがないので、この際関東圏を東京と呼ぶことにする。

そして、ほかの同郷の人たちが上京してから思うのは、やっぱり故郷というはいいものだということ。おれも例外にはならず、沼津に帰省するたびに故郷の空気の心地よさを実感した。

今年の正月は3年ぶりに日本で過ごすことになった。今年の正月はとても空気が澄んでいて、とても清々しい年の始まりを故郷で過ごすことができた。

1月のある日、自宅の2階の窓から富士山が夕日に赤く染まっているのが見えた。「今日だったら夕日がきれいにみえるかもしれない。」と思い、近くの海岸に歩いていった。


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海岸まで続く道は、高校を卒業してから10年以上たっているのに、あまり変わっていない。それも、帰省するたびに夕日を見に行っていたからかもしれない。歩くこと3分、海岸にでてみると、目の前に見慣れた夕日が広がった。そして、振り返ってみると、その夕日に赤く染まった富士山。


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この日は海岸線に雲がかすんでいて、太陽の光は水平線に届く前に雲に遮られてしまった。本当に運が良ければ、太陽が海岸線に沈んでいく様子を見ることができる。おれはここ数年みていないけれど。

太陽が水平線に沈んでいく様子を始めて見たのは多分小学校低学年のとき。親の犬の散歩についていったときだったと思う。当時は視力が異常によかったので、いまよりも奇麗な夕日をみていたに違いない。始めて見たときの感動はいまでも忘れられない。いまでも帰省のたびに、海にきて夕日を見ようとしているのは、デジタルカメラのデータからは伝わらない、あの色や空気に触れたいからだと思う。

沼津に帰ってくるときというは、人生のイベントの節目のときが多い。期末試験・卒論・大学卒業・修論・大学院修了・就職・退職・留学。それぞれの間にこの海岸線にたっている。疲れているとき、これからがんばるぞと気合いが入っているとき、なぜかその夕日をみていると勇気づけられている気がする。夕日を見ながら、沼津という故郷を持ったとこに感謝しつつ、そんなことを思った2009年の正月でした。

遅ればせながら、あけましておめでとうございました。今年も宜しくお願いします。