2006年6月15日木曜日

だれにも恩師と呼べる人が何人かいると思う。ぼくにも何人か恩師と呼べる人がいるけれど、今回は大学時代に出会った恩師について。

慶応義塾大学の機械科は、(いまはわからないけれど)研究室見学のあとに自分の希望する研究室を第3希望まで出して提出する。そして、第1希望の研究室の先生と希望者の面接が行われる。ぼくの第1希望は前野研究室。前野先生は当時、研究室を持ちはじめて1年未満だったけれど、大人気だった。希望者が15人くらい(だっけ?)、つまり半分以上が落とされるということになる。
面接のとき、いすのタイヤがあまりにも滑らかで、思ったよりも後ろにあったため、はじめに座るときに転んでしまった。緊張感ただよう部屋の中で、笑いをこらえる先生。こんなぼくを研究室に配属してくれた。
前野研の2期生として研究室に配属されてから、1年間は大学の研究室で研究の楽しさを教わった。部活にも行きつつ、研究を続けるということは、そのときの自分にとっては本当に辛いものだったけれど、同期にも恵まれ、楽しい研究室生活をすごすことができた。
転機がおとずれたのは学部4年の後半、わけあって北野共生システムプロジェクトというところで、ロボットの研究をすることになった。ここでの生活は本当にきつくて、人生の中で一番がんばった時期じゃないかと思えるくらい。しかし、ここでロボットの基礎となる知識と技術を身につけた。大学にはあまりいけず、ゼミにもいけないときがあったにもかかわらず、前野先生はそんな生活を許してくれた。むしろ、大学の理工学部の卒業式には「2足歩行ロボットはうちの研究室ではできないっていったら、自分で研究する環境をさがしてきたやつがうちにいる!!」といってくれた。ほめられ好きのぼくとしては、名前も出してもらいたかったくらい、じゃなくて、研究室を離れて研究をしている自分を応援してくれているその懐の広さに涙を流しそうになったくらいだった。
そして、博士課程にも進学し、北野プロジェクトが終了すると同時に、fuRoに移籍することも前野先生は「いい話じゃない!!」といって、わがままを許してくれた。その後も、津田沼と横浜を行き来する生活で、大学にはあまりいけない生活が続いた。でもドクターは慶應でとって、先生に恩返しができればと思っていた。
そして、自分の中でまた転機が訪れた。後輩の癌。同じ研究室でMIT出身の訪問研究員のアドバイス。違う後輩の留学。そして、学会で知り合ったMITのポスドク。自分の中でMITのHughの研究室でロボットではなく、義足の研究がしたいと思うようになった。ドクターを取ってからでもいいのではっていう人は多かったけれど、自分としてはどうしてもすぐに行きたいという衝動を抑えることはできなかった。でも前野先生にはMITにアプライするときに、どうしてもいえなかった。引け目を感じていた。ドクター2年もやっといて、いまさらやめるっていえない。そうやって悩むうちに、MITに不合格であれば、あきらめもつくものだが、合格してしまう。ここで慶應を辞めてMITに行く大決断をした。前野先生にいうと「おめでとう。MITにいけるなんて最高じゃない。」とかるくいってくれた。先生の人間の大きさを感じました。
前野先生は、家庭も大事にするし、学生といっしょに飲み会によく行くし、カラオケにまで参加する。研究者として、人間として本当に尊敬しています。いまの自分は先生なしではありえません。MITでドクターをとって、立派な姿をみせることがいまできる最高の恩返しだと信じてがんばっています。
最後になりましたが、教授昇進、本当におめでとうございます。OB会には参加できなくて申し訳ありませんでした。日本に帰ったときには、お祝いもって慶應に行かせていただきます。
とお伝えください。(慶應の人)

3 件のコメント:

  1. おれはうちの先生とそりがあわなくて修士のときに研究室変えました。そこでもあわずにドクターなんて行こうとも思いませんでした。ほんとうによい先生のようですね

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  2. 本当に素晴らしい恩師との出会いがあったのですね。そんな先生に1歩でも近づけるように、研究と人間性を磨いてください。

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  3. 論文でしか拝見したことがありませんが、すごい先生なんですね。昇進おめでとうございます!そんなすばらしい先生から指導を受けた robo さんもきっと多くを引き継いでるんでしょうね。

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