2009年3月24日火曜日

知り合いが文房具について記事を書いていたので自分も書くことにした。

自分はかなりの文房具好きであると思う。数万する万年筆やボールペンが好きな訳ではない。外食で例えるとB級グルメ的で手軽に使える文房具が好きなのだ。研究を進めるにあたり、自分は研究ノートを奇麗につくるほうであると思う。いままでいろいろなペンをつかってきたけれど、ここ数年はボールペンをつかってノートをとるようになった。アメリカに来てからはいい店がないのであまり買っていないけれど、実家に帰るといつもいく文房具屋さんがある。インクという店だ。ここは非常にアクセスが悪く、車でないと行けないけれども、いままでいった文房具屋さんでも、ここほど品揃えがいいところはなかなかない。

これまでも何度も足を運んだ店だけれど、前回の帰省でこの店の専務が兄の知り合いであるということがわかった。早速挨拶がてら行かなければと思い、買い物に出かけた。そのとき知ったのだけれど、自分だけじゃなく、自分の兄も親も文房具好きであるということをしった。遺伝って恐ろしい。

専務もやはり文房具マニアでいろいろな物を進めてくれた。

まずはシャープペンについて。現在日本では三菱鉛筆のクルトガという品物があるということを教えてくれた。シャープペンを使っていると、通常の芯の先が平らになってしまう。クルトガは芯をくるくると回転させることによって、芯の先が常に使いやすい形状を保つというものだ。これにナノダイヤという固い芯を使えば、最強であると教えてくれた。さらに消しゴムはサクラクレパスのフォームイレーザーダブル。残念ながら、シャープペンを使う機会がなかなかないのでこれらの組み合わせを試したことはまだない。

ボームペンについては、ゲルインクでいいものはないかと聞くと、ある一本のペンを持ってきてくれた。おれはこれまでにいろいろなゲルインクのペンをつかっていたけれど、色の違いがあるものの、書きごこちについては、あまり大差がないと思っていた。アメリカに来てからは、PilotのG-2を愛用をしていた。学内の店でも手に入りやすかったからだ。数年前に日本にかえったときには、ZEBRAのsarasa clipを気に入って、大量に買って渡米した。そして、今回専務に勧められたのはPentelのEnerGel。これはいままでにない滑らかな書き心地とペン先から描かれる奇麗な線にすっかりほれこんでしまった。いまではこれが自分のメインツールになっている。

もう一つ教えてくれたのがPilotのフリクション。このペンで字を書いた後、ペンの後ろにあるゴムの部分で文字をこすると、不思議なことに文字が消えるというもの。実際は字が消えるというよりは、摩擦によって引き起こされる温度変化によって、インクが見えなくなるというものだそうだ。最初はおーーと思ったけれど、結局使い心地のいいEnergelに落ち着いたので、フリクションはアメリカにいる友達のお土産にした。意外と好評だ。


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ここ数年に使ってきたボールペン。自分には0.7mmがいいらしい。

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今使っているペンケース。

みなさんはどんなペンつかってますか??

日本の文房具最強説

2009年3月19日木曜日

最近身の回りでは、目を覆いたくなるようなことばかりおこるけれども、それでもそれらを受け入れて、できることを一生懸命やり抜こうと思った。

自分が留学を決意したときには、不思議と気持ちが留学に行き着くきっかけがいくつもあった。そのきっかけの一つをくれた後輩YNに会いにNYにいってきた。というと、もう一人の後輩が怒りそうなので、本当のことをいっておくと、日本から別の後輩が彼氏といっしょにNYにくるという連絡をもらったので、YNにも連絡をしてそこで会うことになった。

最初は4人でマンハッタンで食事をした後、おれとYNは後輩と別れ、YNの仕事場へ連れて行ってもらった。彼は現在New York KnicksのAthletic trainerのインターンをしているのだ。そのときはKnicksの選手たちは遠征にいっているため、中にいれてもらえたのだろう。おそらく、おれはとてつもなく運が良かったのだと思う。そこで軽くバスケをした。ひさびさにみる彼のシュートフォームは懐かしい物があった。2回ほど3ポイントシュートの勝負をしたけれど、2回とも負けた。NBAのボールが小さいからと言い訳をしておこう。。ちくしょ。。

仕事場を見せてもらいながら、普段彼がどんな仕事をしているのかを話してくれた。薄々気づいてはいたけれど、おれと彼は結構近い分野で勉強をしているということがわかった。ただ、彼のほうが圧倒的に臨床に近く、実用的な知識だと思う。

そもそもおれが留学というオプションに気づいたのは、彼が留学するということを聞いたからだ。2005年の夏頃、彼は大学を卒業してから、留学するために英語を勉強しているというような話をしたのを覚えている。その頃、博士課程の1年目だったおれは、自分の研究分野に違和感を感じていて、なにか他の道はないかと思っていたところに、彼の留学という話を聞いた。そして、2005年の秋にたまたま学会であったMITのポスドクに言われるがままにアプライし、現在に至った。おそらく、彼が留学していなかったら、おれも留学していなかっただろう。

当時、彼はNBAでアスレチックトレーナーをしたいといって、留学をした。そのとき、本当に彼がNBAで仕事をすると何人が思っただろう?少なくともおれは難しいのではと、そして挑戦することは悪いことではないと、ちょっと上から目線で思っていた。正直びっくりした。インターンとはいえ、彼は実際にNBAで仕事をしているのだ。なんで、このことを自慢しないのかと笑いながら聞くと
「やりたいという情熱だけでここまでこれたけれど、まだ自分の技術が認められたわけではない」
と答えた。夜遅くまで話をしていて、もっとかっこいいことをいっていたけれど、とりあえず、おれの心の中にとどめておくことにする。


話は変わるけれども、夜12時をすぎた頃、YNは彼女としきりにskypeで話をしたがっていた。彼女は台湾人で台湾にいるため時差があるのだ。おれがいるのになんでそこまで話をしたがるのかなぁと思いつつ、紹介してもらい、軽く話をしたあと、電話を切る間際に
「けんさん、おちゃめですね。」
と奇麗な日本語でいわれた。なるほど、これをいいたかったのか。。

日本にいたころに高校のOBで作ったn-eastというバスケのチームにいたころ、おれはおちゃめキャラというポジションだった。正直、自分としては心外で、そんなキャラではないはずだといまでも思っている。

そんなおれが、彼が留学するときに寄せ書きしたメッセージが以下の写真。
なんだ、、おれ。
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2009年2月14日土曜日

写真が上手!!

わけあって、しばらくボストンから離れることになった。その前にいま手元にある仕事を終わらせたり、引き継いでもらったりと、一日中忙しかった。

今日は朝から晴れわたり、春を思わせる陽気だった。数日前までは氷点下だった気温も今日は10度くらいまで上昇していた。しばらくMITを離れるということもあり、今度戻ってきたらどれくらい変わっているかと思って、家からラボまでの道で何枚か写真をとってみた。

天気のいい日は、川沿いの道を通ることにしている。川越しにみるボストンの風景が好きだからだ。今日もアパートをでた瞬間に、川沿いの道へ自然と自転車を進めていた。

昨日まで道路のすみに追いやられていた雪がほぼ解けてしまい、いまでは黒ずんだ雪の固まりが転々と道ばたにあるだけになっていた。もはや、歩道の真ん中で凍った池だまりで、滑って転ぶことを気にしなくてもいいので、快調に自転車のペダルをこいだ。

数日前まで一面凍っていたcharles riverの水も徐々に解け始めていた。しかし、今年の冬は例年にはない寒さが続いただけあって、表面は溶けているけれども、全部がとけるには時間がかかりそうだ。その向こうに見えるボストン市外の光景はいつ見ても圧巻だ。

それでも、ヨットハーバーの付近の一部の氷だけはすでに解け、川の水が姿を見せていた。その周りに小さな鳥が集まって、氷がまだ溶けないかと待っているかのようだった。

そして、ラボの隣の工事中の建物が見えてくる。いつもの光景だ。それでもこの新しい建物も徐々に完成に近づいてきて、外見はもうほぼ出来上がっているようだ。


帰国された方々はこの今の建物をみて、だいぶ工事が進んだことがわかるんじゃないでしょうか。またMITに帰ってきたときにはどれだけ変わっているか、たのしみです。

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2009年2月9日月曜日

アメリカにきてから、4度目の春セメスターが始まった。もはや、去年に卒業に必要な授業をすべてとったため、、今年からは勉強したいものをとることができるようになり以前にもまして余裕が生まれた。それと同時に卒業へのプレッシャーも徐々に感じるようになってきた。

今年の春セメスターは2つの教科を教える立場になった。
まず一つ目は去年も行ったDeveloping World Prostheticsという名前の授業。去年のLecturerが現在Northwestern Univ.のMedical schoolに入学してしまったため、半ば強引に押しつけられた形でLecturerになるはめになった。

授業の内容は基本的には去年と同じ。発展途上国に用いられている義足の技術、社会保険の制度、用いることのできる材料、患者の数を勉強しつつ、インドやカンボジアで用いることのできる義足の設計、制作を行うというもの。授業が終わっても、やる気のある学生は夏休み中にプロジェクトを続けることができ、うまくいけばできたものを実際に現場にもっていき、テストをすることになっている。授業を受けた20人の中から、2人の学生がインドに出向き、彼らが作った義足を現地のクリニックでテストすることができた。いまでもこのプロジェクトはつづいていて、今年の夏も行くらしい。

じつは今年は2週間ほどまえまで、2人の学生しか登録されていなかった。このままでは授業を行うことができないと思い、1週間を使って、MIT全体にポスターをはったり、航空宇宙・EECS・HST・機械学科の学部生のメーリングリストにクラスの宣伝メールを行った。その甲斐あって、最初の授業には15人の学生が授業にきてくれた。今年は何人の学生が夏に現地にいくことができるであろうか。

そして2つめの授業の名前はHuman 2.0。この授業はアドバイザーが今年から始めて教える授業で、TAをやることになった。授業の内容は実はあまり理解していないのだけれど、人間の脚部のセミナーから始まって、上半身、記憶、感情などの人間の要所要所の機能のメカニズムを勉強し、最終的にはプロジェクトとして人間の何かしらの機能を向上させるをするものをつくらなければいけないらしい。

という感じですでに、忙しいながらも、楽しみながら日々を送っています。こっちに来たばかりのときには、自分がいままで学んで機械工学、メカトロの知識を義足に役立てるんだって意気込んていたけれど、いまとなってはすっかり、人間の複雑さ・頑強さ・柔軟さに惹かれるようになった。筋肉一つをとっても、あれだけの機能を再現できる機械要素はみつからない。そんな筋肉を500個以上もつかって毎日体を動かしている人間はすごい。

2009年2月4日水曜日

ひきつづき沼津ネタです。

前回オムライスに関してこんな記事を書いた。

かいつまんで話すと、おれがかなりのオムライス好きだということが書いてある。オムライスであればなんでもいいというわけではない。ちまたでオムハヤシなどと呼ばれている、デミグラスソースがかかったこじゃれたようなものではなく、ケチャップののった正当派のオムライスでなければいけない。

そんな記事を書いたもんだから、先日実家に帰ったときに親が気を利かせてくれて、昔よく行った千楽のオムライスを食べようといってくれた。まだオムライスをだしているかもわからない、まして店がまだあいているかもわからない。最近の沼津駅近くの商店街を見ていると、千楽のような昔なじみのお店はもうやっていないのではないかと、ひそかに思っていた。

そんな中、親が電話をしてみると、オムライスをまだだしているだけでなく、千本の遠藤さんという名前を覚えていたようだ。スーパーや大型電器店、レストランのチェーン店が続々と沼津に進出しているなか、千楽のような昔なじみの洋食屋が生き残っているのは本当に大変だろうと思うけれど、おれのような昔から沼津にすんできるような人にとってはほんとにうれしいことだ。

そして、千楽によってオムライスを受け取り、家に帰ってご対面。

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改めてみてみるとかなりでかい。となりに名刺をおいてみた。とにかくでかい。食べてみると、懐かしい味が口の中に広がった。たぶん、大きさも味も、十数年前とあまり変わっていないと思う。

毎回帰省するたびに、沼津市街は変わっていった。駅前からは老舗がなくなり、さらに富士急デパートもなくなり、マンションばかりたつようになってしまった。新幹線で東京まで1時間ほどなので、ベッドタウン化しているらしい。昔の沼津は、静岡県東部の経済の中心地として、また観光地としてもそれなりの知名度を誇っていたらしいけれど、今となっては徐々に時代の波に飲まれつつある地方都市の一つになってしまっている。wikipediaをみてみても、さんざんな言われようだ。こんな沼津を活性化したいという話を、幼なじみから聞いた。お互いいい年になって、ある自分のできることがわかってきて、その力を少しでも沼津の活性化につなげたいという熱い思いを聞いて、自分もなんか故郷のためにできないかと思うのだけれど、自分になにができるんだろう。。

とりあえず、帰省したら千楽のオムライスを食べることからはじめることにします。

はじめて親にせがまれて記事を書いてみたけれど、話が脱線。。ごめんなさい。

2009年2月2日月曜日

物心ついたときから、沼津という港町に住んでいて、テレビで見る都会に憧れて、中高生のときは兄と同じように一刻も早くこの町を出て行きたいと思っていた。当時は特に理由もなく、やりたいこともないのに、アメリカの大学に行きたいといって、親に反対されたときもあった。ただ、とにかくいち早く沼津という町から東京に出て行った兄がうやましくて、自分も東京の大学に入学して、一人暮らしをするんだということばかり考えていた。実際に10年後、20年後自分が何をやっているかなんてあまり考えていなかったな。

高校を卒業してから、念願の東京での一人暮らしが始まった。正確に言うと、東京ではなく、横浜なんだけれど、沼津からみたらあまり違いがないので、この際関東圏を東京と呼ぶことにする。

そして、ほかの同郷の人たちが上京してから思うのは、やっぱり故郷というはいいものだということ。おれも例外にはならず、沼津に帰省するたびに故郷の空気の心地よさを実感した。

今年の正月は3年ぶりに日本で過ごすことになった。今年の正月はとても空気が澄んでいて、とても清々しい年の始まりを故郷で過ごすことができた。

1月のある日、自宅の2階の窓から富士山が夕日に赤く染まっているのが見えた。「今日だったら夕日がきれいにみえるかもしれない。」と思い、近くの海岸に歩いていった。


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海岸まで続く道は、高校を卒業してから10年以上たっているのに、あまり変わっていない。それも、帰省するたびに夕日を見に行っていたからかもしれない。歩くこと3分、海岸にでてみると、目の前に見慣れた夕日が広がった。そして、振り返ってみると、その夕日に赤く染まった富士山。


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この日は海岸線に雲がかすんでいて、太陽の光は水平線に届く前に雲に遮られてしまった。本当に運が良ければ、太陽が海岸線に沈んでいく様子を見ることができる。おれはここ数年みていないけれど。

太陽が水平線に沈んでいく様子を始めて見たのは多分小学校低学年のとき。親の犬の散歩についていったときだったと思う。当時は視力が異常によかったので、いまよりも奇麗な夕日をみていたに違いない。始めて見たときの感動はいまでも忘れられない。いまでも帰省のたびに、海にきて夕日を見ようとしているのは、デジタルカメラのデータからは伝わらない、あの色や空気に触れたいからだと思う。

沼津に帰ってくるときというは、人生のイベントの節目のときが多い。期末試験・卒論・大学卒業・修論・大学院修了・就職・退職・留学。それぞれの間にこの海岸線にたっている。疲れているとき、これからがんばるぞと気合いが入っているとき、なぜかその夕日をみていると勇気づけられている気がする。夕日を見ながら、沼津という故郷を持ったとこに感謝しつつ、そんなことを思った2009年の正月でした。

遅ればせながら、あけましておめでとうございました。今年も宜しくお願いします。